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お風呂の歴史1
事務員Hです。
前回、日本初女性一級建築士の話はLDK(主にキッチン)でした。
お風呂は?と疑問に思ったので調べてみました。
私が子供のころ、たいていのご家庭にお風呂はありました。
一部のお風呂のない家の人は、銭湯に通っていました。
私の最初のお風呂の記憶は木の浴槽で、木の蓋をかぶせ、屋外にガス湯沸し器が置いてありました。
水を張った後に湯沸しをするので、上部は熱くても下の方は水の状態の時があって
ちゃんと混ぜないと、入ってから予想より温い状態で入浴することになります。
反対に、沸かしすぎて混ぜても入れない!という時も。。。
その後、ステンレス製の浴槽に変わり、更に建替えでボイラー給湯に代わりましたが、
木製蓋だけは変わらず使用していました。この木製蓋、重かった。。。
右の写真のような蓋でした。
そういえば、昔のなぞなぞで『上は大火事、下は大水。なあんだ?』
というものがありましたね。
ちょっと気になり、調べたら
「下は大火事、上は洪水な~んだ?」という逆パターンもありました。
こちらは、薪で炊くお風呂とのことでした。
時代でなぞなぞが変化していっていますが、現在ではたぶん成立しないなぞなぞです。
さて、お風呂の歴史いきます!
深掘りしすぎて、長編になりそうですので、分けていきます。
日本に『入浴』が広がったのはさかのぼること奈良時代。
それ以前は、海や川での「沐浴(もくよく)」、つまり、水浴びが行われていたそうです。
冬はできませんよね。。。
(年末特番?再放送?田舎で自給自足家族のお父さんが冬に川で水浴びをしているのを観ました。できるんだ!!)
飛鳥時代
入浴とは違いますが、
壬申の乱(じんしんのらん) の折、
大海人皇子(おおあまのおうじ : 後の天武天皇)が背中に矢傷を負い、
八瀬(やせ) の里(現:京都市左京区)に逃げ隠れたとき、村人たちが土のむろを造り、
それを温め治療したと伝えられているそうです。(かま風呂)
このお風呂を現在堪能できるのが京都の料理旅館『山ばな 平八茶屋』です。
現在は休業中ですが「料理旅館ふるさと」でのかま風呂体験記(2018年)
JR東海HP 目的から探す → おでかけ・お買い物
『そうだ京都、行こう。』のブログです。
旧かま風呂(八瀬ふるさと敷地内) 直径2m程度のドーム型に組んだ下側に小さな入口がある構成。最初にドーム内で火を焚き熱する。 加熱後に換気を行い、塩水で濡らした莚を引いて、その上に人が横たわる形で入浴をした。 |
平八茶屋 かま風呂 入口 | 平八茶屋 かま風呂 内部 |
奈良時代
仏教伝来により、僧侶の体を清めるという宗教儀式がきっかけで、
「病気を退け、福を招く」として、体を温め、身を清める入浴が勸められた。
当時は蒸し風呂のような形で、現在のサウナに近かったそうです。
洞窟や岩室、土室などで作られたものや、
お寺には「浴堂」と呼ばれる体を温める施設が作られていったそうです。
浴堂を病人や貧しい人たちに解放する事(施浴)もあったようです。
有名な話?で「光明皇后の施浴」があります。
私は、『まんが日本史』でしたでしょうか?読んだ記憶があります。
教科書や授業ではなく、小説・まんが・ドラマなどの方が記憶に残るのは何故なんでしょうか?
皇后はある悲願のために、奈良法華寺の施浴において千人の俗人の垢を洗い流すことを決めました。
ところが、最後の千人目にあらわれたのは、全身に血膿をもつ悪疾の患者でした。
しかし、皇后は厭うことなく、背中を流し、さらに患者に乞われるまま膿まで吸い出してやりました。
その瞬間、浴室に紫雲がたなびき、患者は立ち上がって黄金の光をはなち、「我は阿しゅく仏なり」と言葉を残し消え去る。
というお話でした。
『洗湯手引草』(光明皇后が仏のお告げで施湯を行う様子) | 「光明皇后 施浴図」 |
法華寺 浴室(からぶろ)
光明皇后が千人の垢を自ら流したという伝説のある蒸し風呂である。
それ以来古例に倣って尼僧ではなく庶民のために使用していたとされる。
現存の建物は江戸時代の明和3年(1766年)再建のものである。
建造物としてではなく、民俗文化財として国の指定を受けている。
総国分尼寺 法華寺門跡
https://hokkejimonzeki.or.jp/
平安時代
平安貴族たちの間で入浴の文化が発展し、「風呂殿」と「湯殿」に区別されるようになったと言われています。
「風呂殿」は蒸し風呂、蒸し風呂で汗を流し、浮き出た垢などを拭き取っていたそうです。
「湯殿」は湯浴をする場所だそうですが、湯浴といっても
現在のように浴槽に湯をはって浸かるのではなく、水や湯を体にかける程度のものであったとのこと。
あくまで「身を清める」や「禊(みそぎ)」といった儀式的な意味合いが強く、
入浴する日も占いによって決めていたそうです。(貴族のみ)
庶民は貴族ほど日々の生活を占いに左右されることはなく、比較的頻繁に公共の蒸し風呂を使用していました。
水で体の汚れを落とすということも、庶民の中ではわりと浸透していたと言われています。
毎日入浴する訳でもなく、入浴方法は体にお湯をかける程度…となると、気になるのは体臭。
そこで流行したのが「お香」と言われています。
お風呂に入る習慣がないヨーロッパで香水の文化が発展したことと、似ています。
神戸東洋日本語学院さんより |
平安時代の貴族が蒸し風呂に入る時、水蒸気でやけどをしないように「湯帷子(ゆかたびら)」を着ていました。
「湯帷子=ゆかたびら」とは、袷 (あわせ) の片枚 (かたひら) の意で、裏地を付けない麻の単衣(ひとえ)を指しました。
その後、綿素材になり、汗を吸い風通しの良いことから湯上がりに着られる着衣となり、
就寝時に寝間着として用いられるようになりました。
やがて、江戸時代の中期に入りいまのような着方に近いちょっとした外出着にも着られるようになります。
それが今の『浴衣』です。
説明やイラスト、読み物としては
きものとさんのコラムが面白かったです。
鎌倉時代、室町時代
施浴の習慣は、鎌倉時代になるともっと盛んになり、
1192年源頼朝が後白河上皇の追福に鎌倉山で行なった100日間の施浴や、
幕府が北条政子の供養に行なった長期間の施浴は有名です。
この記述は『吾妻鏡』にも見られます。
室町時代に入っても、幕府や寺院により施浴の習慣は受継がれ、施浴は「功徳風呂」と呼ばれ、
一定の日にちを定めて庶民にふるまわれました。施浴の習慣も個人にも広がり、
この頃から、寺院とは別に、公卿や武士、その他の裕福な個人の家では、入浴施設を有するようになっていました。
人を招いて茶の湯やご馳走、お酒などをふるまいましたが、そのこと自体を「風呂ふるまい」と呼ぶことがありました。
その理由はお風呂に入ってもらったあとに、宴を催すことが多かったからです。
ちなみに、公卿の間では、裕福でお風呂がある家に「もらい湯」へ行った際、湯銭代わりに薪木を持ち寄ることを「合木風呂」と呼んでいました。
将軍足利義政夫人の日野富子は、毎年末に両親追福の風呂をもよおし、識者たちを招待。
その際、風呂や食事をふるまったのは有名な話だそうです。
同じ頃、地方では村内の仏堂に信者が集い、風呂を沸かして入り、
入浴後は各自持ち寄った酒や肴をあてに宴を催す「風呂講」もさかんに行われていました。
京都や鎌倉で「町湯」と呼ばれる初代銭湯が建てられ、庶民が銭湯を楽しむようになったそうです。
京都の銭湯を探すなら
https://1010.kyoto/
兵庫で銭湯を探すなら
https://hyogo1010.com/sento_list/nishinomiya-shinyu/
相国寺 浴室 | 浴室 内部 |
相国寺 浴室
相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれ、1400年頃創建されたとみられます。
現在のものは、慶長初年(1596)に再建されたものです。
宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた
「天童山宣明様」という図にあるように、浴室の別名です。
禅宗では「威儀即仏法」といい、日常の立ち居振る舞いすべてが修行の場であり、
浴室は寺院の伝統的な伽藍配置の建物の一つと言うだけでなく、
修行の上で「心」と「体」の垢を落とすという意味で、重要な役割を果たしています。
平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。
相国寺
https://www.shokoku-ji.jp/
境内案内 21.浴室
https://www.shokoku-ji.jp/guide/
参考URL
京阪 京都ツウのススメ 第八十三回 京都の湯
https://www.keihan.co.jp/navi/kyoto_tsu/tsu201503.html
株式会社バスシステムデザイン研究所 お役立ち情報 コラム 日本のお風呂の歴史
https://bsd.ecobath.com/
次回に続く。。。